ギンザノヒト

ダサくていいじゃない

オタクはいつから街を大手を振って歩けるようになったのか

この記事はそこらの大学生がなにも調べないまま書きなぐっただけなので、そこは了解の上読み進めていただけると助かります(言い訳)。

私オタクなんで、と名乗るオタク

この間、Twitterでこんな発言をしてしまった。「生き生きしてるオタクはキライだ」と。じゃあそういうお前はなんなんだという話ですが、僕も漫画・アニメの知識があってそちら側に傾倒しているという意味ではオタクにカテゴライズされるのかもしれません。
しかし、昨今の「オタク」、定義が曖昧すぎるんじゃないでしょうか。僕が思うに、オタクってマイナスイメージの言葉だし、言うなれば蔑称だと思うんですよね。普通の人⇔オタクという対比の上で使われる言葉だと思われます。そういう人達は、マジで全てを捨てて自分の趣味(特にサブカルチャー)に賭けてるからこそ特異な目を向けられオタクと呼ばれるようになったのではないかと思います。
というか、はてなキーワードにも蔑称ってちゃんと書いてありましたね。いま読みました。
元々ロリコン漫画誌から発せられた造語の為、本来は(性的表現も含む)コアな漫画・アニメマニア(特に男性)を指す蔑称。
以上、はてなキーワードより引用です。
それが、現在ではオタクを自称するような人達が大勢いて、秋葉原などでは我が物顔で大手を振って闊歩しているわけです。
僕は自分たちでオタクを自称して連む姿に、「あたしってブスじゃん?」「えーかわいいよーあたしの方がブスだもん」「ブス仲間じゃんイェーイ」みたいな気持ち悪さを感じます。
違う例を挙げるなら、「あたしってデブじゃん?」「えーデブじゃないよーあたしの方がデブだもん」「デブ仲間じゃんイェーイ」みたいな気持ち悪さです。伝われ。
つまり、私オタクなんでって自称するヤツらは、オタクのことを蔑んだ上で、自分を下にして普通の人同士で仲良くなるために自称しているひとが多いんじゃなかろうか。

生き生きしてるオタク

じゃあ、生き生きしてるオタクとはなんなのかというと、こんな感じに分けられるんじゃなかろうか。分ける軸としては、①普通の人⇔オタク、②周りを気にしている⇔気にしていない、でしょうか。
  1. オタクを自称する普通の人が仲間内でワイワイやってる
  2. 特異な目を向けられる快感を得るために普通の人がわざと演じている
  3. 自分が特異であることに気づかず(周囲からの視線に目もくれず)、活動に励んでいる
  4. 自分が特異な目で見られてることには気づいているが、それよりも目の前のコミュニティ・コンテンツが優先である
こんなもんでしょうか……?
ここまで類型立てたところで、秋葉原を大手を振って歩くオタクはどれなのか考えると、1,2が多いんじゃないかなと思います。オタクという言葉が広く流布して、サブカルチャーと呼ばれていたものがメインカルチャーに登りつめて、その結果が1,2のような生き生きしたオタクを生んでる気がします。
なんかアレですね、竹の子族に近いものを感じる。竹の子族よく知りませんけど。元竹の子族の方に聞きたいのですが、なんで自分は昔あんなことしてたんだろう?とか思わないんでしょうか(別に煽ってないです)。たぶん、世の中そんな流れだったからそうしてただけなんじゃないんですか。先の類型の1,2のようなオタクもたぶん同じで、なんかそんな流れだからそうしてるだけだと思うんですよね。

それが全国的に波及するに至ったのは、やはりインターネットの力なのではないでしょうか。そして、1,2のようなオタクを取り込んで儲けようと思った企業の力なのではないでしょうか。秋葉原がそういう街として成立したのも、商業的な思惑があったのではないかと思ってしまいますが、これは資料に基づかない勝手な思い込みかもしれません。

今後に思うところ

そんなわけで、話があっちいったりこっちいったりしてますが、結局何が言いたいのかというと、①オタクを自称するのは気持ち悪いからやめてほしい、②オタクを自称してるのは大抵そのときの流行でたまたまそんな感じになっちゃった普通の人なんじゃないの、ということです。それをクールジャパンっていって売り出そうとしたって何か嫌ですけどね。だって竹の子族売り出します?売り出さないでしょ。もちろん、アートなり芸術作品であることを意識したアニメ・マンガなどはクールジャパンとして宣伝していくことは可能でしょう(同様にファッションとしての竹の子族・原宿文化はクールジャパンとして世界に知られている)。なにがただの流行で、なにが文化なのか、曖昧なところですね。
オタクがコミュニケーションツールになっている、という指摘を見たことがある気がします。僕もコミュニケーションツールとしてアニメ・マンガを受け入れた気がします。コミュニケーションツールということは、それだけ多くの人が広く知ることとなった、つまりメインカルチャーとなったことと関係していると思います。マンガ・アニメは既にメインカルチャーだ。なのに、未だにサブカルチャーの席を譲ろうとしない。だから違和感があるんじゃないでしょうか。オタクという言葉はサブカルチャー時代の言葉であり、もはやメインカルチャーとなった今にはそぐわない。
ところで、マンガやアニメがメインカルチャーの仲間入りを果たしたとすると、じゃあ今のサブカルチャーってなんなんすかね。メインカルチャーまで来るとそこから先は衰退していって、また新しくサブカルチャーメインカルチャーの仲間入りをする、という流れを感じますが、マンガ・アニメが未だにサブカルチャーのままなお陰で次のサブカルチャーが出てきていないのかもしれません(さすがにそんな単純な話じゃない)。

バレンタインデーと男子校

最後にもらった本チョコ()は幼稚園年長さんのとき、どうもくりむです。

たまたまバレンタインデーのときに彼女がいないだけです(大嘘)。

男子校のバレンタインデーは普通*1じゃない

自分は男子校出身です。文体からもにじみ出てますね。さて、世間の皆さんは、男子校のバレンタインデー、どんな感じだか想像がつくでしょうか。

 男子校のバレンタインデー、もちろん「興味ねぇよ」って言ってます。が、そこで終わらないのが男子校根性だと思いませんか?(全国の男子校のみなさんごめんなさい)

男子校のバレンタインデー4類型

僕が在学当時、よく見られたのは、女の子から(たとえ義理でも)チョコをもらうやつは徹底的に叩きのめす「異端審問会」でした。教室の後ろの掲示板には、チョコのパッケージが画鋲で打ちつけられ(中身は美味しく頂いてます)、疑惑が上がると1日中問い詰められ続けます。そして誓うのです「俺たち仲間だよな」と。

バレンタインデーに限りませんが、男子校にはこういう「足を引っ張り合う感じ」がいろいろなところに見られます*2。勉強しねぇっていったら本当に勉強しないし。

またあるときは、大量にチョコのお菓子を買ってきて、みんなで食べるだけの会をするところもあります。まあ、普通ですね。

またあるところは、自分でクッキーなりチョコなりを作って、友達に配ったり女性の先生に渡したりします*3。だんだん面白くなってきたでしょうか。誰が男子中高生の作ったチョコなりクッキーなりをよろこんで食べるのかよくわかりませんが、そんな感じになるわけです。

究極的には、友達同士で手作りチョコを持ち寄って(きっちりラッピングされてる)交換しあいます。これが案外クオリティが高い。トリュフで満足しないですからね。僕はトリュフで許してって感じでしたが。一番ビビったのはマカロン作ってきたのですかね。

バレンタインデーこそ男子校の良さがわかる

そんなわけで、各所各年様々な楽しみ方をする男子校のバレンタインデーですが、こうやってバレンタインデーに盛り上がる友達、実は部活動のメンバーとは違ったような気がするんです。なんでかよくわからないけど、バレンタインデーに盛り上がる。そして、何より、卒業してからも会う友達って、バレンタインデーで一緒に盛り上がったやつらな気がします。気のせいですかね。ややこじつけですかね。

バレンタインデーに限らず、クリスマスも同じような雰囲気があります。「お前はクリスマス暇だよな?」っていって、暇じゃないやつは「異端審問会」にかける。暇な人で集まってワイワイ騒ぐ。こんなの、男子校じゃなきゃできないんじゃないの。共学の男どもにこの真似ができるのか?!(突然の煽り)

男子校は、良くも悪くも男しかいません。よく「男子校出身はオタクだしコミュ障だ」みたいな、男子校を蔑む論調になりがち(いやホントその通りだとは思う)ですが、だからこそ純粋な友情が生まれると思うのです*4男子校では、好きなものは好き・嫌いなものは嫌いって言うし、女の子を取り合って喧嘩しないし、そのために嘘を付き合ったりしない。そういう人たちが大学に出ていきなりライアーゲームの世界に放り出されてコミュニケーション取れるわけないだろうが!!

社会がライアーゲームというのは多少言い過ぎですが()、でも、男子校ってそれくらい人間関係で悩まないんですよね。

大人になってもあの頃に戻れる

大人になってもあの頃に戻れる理論、実はそんな単純な人間関係のおかげなんじゃないでしょうか。僕はまだ大学生なのでなんとも言えないですが、大人になったって僕らの間にあるのはただ「友達」か「友達じゃないか」の単純な関係しかなくて、友達なら何も考えず話したいこと話すし、友達じゃなかったら全く話さない。そこにちょっとなかのいい友達とか、こいつならここまで話せるみたいな意味不明なボーダーとかないのではないでしょうか。僕だけですか。でも、共学だったら「あーあの子にフラれたな」とか「あの子と付き合ってたな」とか「三角関係だったな」とかあるんでしょ?メンドクサ。

僕はそういう、こいつらとはなんでもできるってマインドでいるし、だからこそ「将来絶対お互いの分野で活躍して再会したい」と思ってます。そうじゃなきゃ面白くないじゃん。僕の友達だと何のしがらみもなく誇れるし、僕もそう言われるように頑張りたい。そういう関係ってどうですか、バカっぽいですかね。もっとバカなこというと、将来再会して、みんなで一緒に世界を救いたいと思ってます。幸せな脳みそしてますでしょ。

よくわからないところに話が着地しようとしていますが、一番言いたいのは「男子校のバレンタインデーは最高に面白い」ということです。 

バレンタイン・キッス

バレンタイン・キッス

 

*1:僕は普通のバレンタインデーがなんなのか知らないですが。

*2:全国の男子校関係者の方、本当にスミマセン……

*3:先生からは返って来ない

*4:自分で書いてて若干の吐き気を覚えた

働きたくない

学園祭が終わりました。すでに1日が経ったはずですが、未だに疲れからか後を引きずっています。燃え尽きとは違う何かです。

所属意識と突きつけられる現実

これはかなり前からその気があって、悩んだ時期もあったことですが。いわゆる「仲間が好きなのか、活動が好きなのか」問題です(僕の中では常に議論がなされている定番の問題なのだ)。 具体的な例をあげる。多くの人は、中高大と部活動やサークル活動をしています。当然僕もです。なんと4つのサークルに籍を置いています。 サークルや部を選ぶとき、その活動内容はさることながら、そこの雰囲気や所属する人の人柄も大きなファクターとなっているはず。僕もそうやって選んだはず。それが、学年が上がって、指揮する立場になって、いつも直面します。後輩に何かを伝えられるほど活動内容に精通してないし、突き進むだけの熱意もないと。そしてこう思うわけです。ああ、ただ一緒にいて気持ちいいから所属してただけだったのかと。 これを友人に話したとき、笑われました。そりゃ普通そうでしょ笑、てきな感じだったと思います。僕もそう思います。そりゃそうだ、それの何が悪い。 悪くないけど、みんなその活動に打ち込んで、それなりの成長や成果を残しているはず。もしそのコミュニティがなくなってしまったとき、同じ活動ができる別の似たコミュニティを必死で探すはず。集まっているとき以外にも研鑽を重ね、努力を怠っていないはず。それが僕にはないことに、所属意識が最高潮に達したときに突きつけられるのです。ただ周りに流されるままに、自分がそれを好きだと思い込んで(本当にそこそこ好きなんですけどね)続けてきていただけなんだ、と気づくわけです。選ぶことを放棄する快感、周りに流される快感、何かに(思い込みでも)熱中する快感、そういったものにズブズブになっている自分。なんと惨めなことか。

物事を選択するのは、理性か感性か

基本的に僕は“頭でっかち”なのです。何かをやろうと思ったときに、リスクばかり考えて何も出来なくなってしまう。あるいは、途方もない道程ばかり見て一歩踏み出せなくなってしまう。普段は感情に流されるままななに、ふと立ち止まったときに理屈ばっかりこねて、自分の感情を蔑ろにしてしまう。 楽しい方向に進んでいくことは、ともすれば自堕落な方向に進みがちです。所属して間もない頃は、全てが楽しい。新しいことばかりで、すべてが華やかです。それが暫く経つと、ある程度新しいこともやり尽くして、今度は思考停止の自堕落な方向に進みます。表面上は、コミュニティの活動に積極的に参加してるようで、そして実際に自分も充実感を得ているなかで、実は与えれた環境の中で、選択肢が狭められた中で、ただ思考停止しているだけになってしまう。 そして、そんなことは当たり前で、誰だってそうなはずなのに、コミュニティを指揮するときにこの事実に行き当たり、頭の中をぐるぐるこの事実が回るだけで、なにもできなくなってしまうのです。何も考えず感性に任せてきたはずが、急にこの場に及ぶと理性で判断しようとするのです。あーやだやだ。考えるのなんて辞めてしまいたい。

就活は、人生最初の“選択”になりうる

そんなわけで、大事な選択・責任のある選択は、理性で行おうとしがちですが、僕はそれに極端に弱い節がある。周りにあるものをとりあえず吸収して、良しとして、とりあえず乗っかってみて、所属意識を持ったりしてみて、そんなことを続けてきたわけです。理性での選択なんざしたことないよ! いやいや、あなた受験したでしょ、高校とか大学はどうやって選んだの、って? 選んでないですよそんなの。高校(正確には中高一貫だったので中学)は、とくに理由はないけどなんとなくここがいい、で選びました。あとは、手が届きそうな難関校ってところ。大学は、自分の高校の友達に流されて国立難関校を志望してみたり、偏差値の高そうなところを片っ端から受けてみたり、ジャンケンで受験校決めてみたり。そもそも文理決めたのも特に理由なかったのでは。 趣味や習い事だって、全部借り物です。友達がやってたから、親に勧められたから、運動したくなかったから、などなど。 そして、全てを借り物で築きあげた結果、唯一見つけたと思った“多趣味”(借り物の趣味なのでカッコが二重になるべきかもしれない)という才能は、大学に入って早々自分より多趣味で自分よりハイクオリティな人に出会って、崩れ去ったのでした。 そんな自分が、就活をしようという今、何を求められ、求めているかといえば、オリジナリティなわけです。社会の歯車になりたくない、と思ってはいても、じゃあ何になりたいのか、何が得意なのかと言われれば、閉口するしかない。興味のある職種は?と聞かれても、そもそも趣味や興味の対象が定まってない。就活という人生で(もしかしたら)最も重大な場面で自分の無力さに直面し、いつも怠けていた理性は何も処理できないでいる。その結果の思考停止が“働きたくない”に他ならない。

あなたの“働きたくない”はどこから?

私は思考停止から。 どこの職種に就いたって、それなりに上手くやっていけるとは思います。でも、絶対に1番にはなれない、そんな気になる。あらゆるものを、流されるままに適当にやったきた自分には、1番になれるスキルはない。今より、1番になれないということは、褒めてもらえないわけで、ゆとり教育ど真ん中世代の僕は辛すぎてやばい(そうやってすぐゆとり教育のせいにする)。こんなことなら、10代で子ども作って出来婚して焦って職場探して〜とかしたかった(大嘘)。 さて、日本の若者は未来に希望を持てていないそうですが、「あなたの“働きたくない”はどこから?」

 

p.s. 彼女がいない僕は、よく考えたら“好きな女の子”すら“選択”できないから彼女つくれないのかもな、と思いました。

 

※このブログ記事は、僕のもう一つのブログ(kuriiiimu.net)からの転載です。