ギンザノヒト

ダサくていいじゃない

GW暇すぎる件

今週のお題ゴールデンウィーク2016」 f:id:kuriiiimu:20160501022130j:plain ↑昨年のゴールデンウィークに行ったっぽい茅ヶ崎の夜明け

ゴールデンウィークってめっちゃ暇じゃないすか

どうもくりむです。世間はゴールデンウィークですね。私は大学生なので毎週ゴールデンウィークみたいなところありますが。

ゴールデンウィーク暇すぎる

ゴールデンウィーク暇じゃね? 暇というか、やりたいことはあるんだけど、「普段なら空いているはずのあの場所がめっちゃ混んでる!」みたいになるじゃないですか。 たとえば、池袋行きますでしょ。途中で疲れますでしょ。喫茶店入りたくなりますでしょ。どこも空いてない。 ってなると、もう家にいるしかないじゃん。

お金がない

そして、個人的な事情ですが毎年この時期ってめっちゃお金がない。アルバイトの関係で、1,2月ってめっちゃお金入るんだけど、そこから先はあんまり入らなくて、6月あたりが1年で一番貧困を極める。 5月の頭であるGWは、そんな事情があるせいで全然お金使えないし、なのにアルバイトは祝日だからないし、なんやねん。

ゴールデンウィークといえば映画

ゴールデンウィーク、聞くところによると映画業界の用語らしい。連休が続いて映画が売れるからゴールデンだと。たしかにこの時期めっちゃ映画公開されますよね。 いろいろ見に行きたいのあるけど混んでるから行きません。もっと空いてから行きます。だって値段同じじゃん。

ズートピアが流行りらしい

今年はディズニー映画のズートピアがいい感じらしいですね。ケモナー歓喜のハイレベル映画っぽいのでちょっと見るのためらってます。誰か背中を押してください。 コナンも見たいですね。でもあれですね、泣くために映画見たいのに、どの映画見て泣けばいいんだろうか。

無駄に掃除してみたり

とにかく、家から出たくないので、家の掃除してみたりしてみたり。冬の間は部屋が寒すぎてiMacが放置されている我が家ですが、そろそろ暖かくなってきたのでiMac周りを片付けて使えるようにしてみました。 久しぶりに立ち上げたら、動作が重いのなんの。どうしたものか。

ゴールデンウィーク明けたら面接ラッシュらしい

実は就活生なわけですが、ゴールデンウィーク明けって面接固まりますよね。しかもゴールデンウィークって大抵大学でも課題出されますよね。あれ、暇じゃないのでは……? やだやだ何もしないぞ俺は!(さっきまでES書いてた)

くりむのゴールデンウィーク2016

というわけで、私のゴールデンウィーク2016はなるべくお金を使わないよう家に籠って掃除とESとウェブテストと勉強に終わりそうです、本当にありがとうございました。

エンディング曲は迷宮の十字路(だっけ?)のテーマ曲です。

『大学生』って、なんだ?

春ですね

なんだかんだでもう大学の4年生になってしまいました、くりむです。
4月になり、大学には新入生がやってきました。まだ僕の中で新しい後輩たちが入って来たんだなぁという実感はありませんが、新入生の皆さんは大きな希望と少しの不安を持って大学生活のスタートを切ったはずです。

大学に入って初めて経験したこと

大学に入って初めて経験したこと、たくさんありますよね。酒・タバコは多くの方にとってそうでしょう。
僕の場合なら、アルバイトも大学に入って初めて経験したことです。なんだかんだ3年間続けてしまい、すっかり長老のようになってしまった塾も、「部長!」と呼んで可愛がっていただいたラジオ番組制作も、今まさに向かっているコンビニの夜勤も、全て大学に入ってから始めたことなんだなぁと思うと、ひどく感慨深いものです。アルバイトだけでも、濃い3年間だったなぁと思います。
あとは、言わずもがな、サークル活動。多くの大学生の例に漏れず、僕の生活の中心もサークル活動だったわけです。それまで映像なんて興味のなかった僕が、映像のために一眼レフを買い、ついでに写真も始め、その流れでトイカメラも始め……。活動内容だけでなく、サークルを通して経験してきたありとあらゆるものは、僕の血液の90%近くを構成しているんじゃないかというほど僕の中の大きな部分を形作っています。

その多くは、人間関係に収束する

大学生になって初めて経験したもの、徹夜というやつもです。徹夜カラオケ、すごく刺激的でした。
あとは、男女関係のもつれみたいなのも、大学生になって初めて経験したものですかね。僕が勝手にもつれたこともありますが、多くは僕の周りでとんでもない、それこそブログでネタにできないレベルでもつれるのを見る機会が数回ありました(高校時代の友人に話したら同情された)。
もちろん、大学に入ってから得たものは、これらの『体験』だけでなく、知識や技能も多くあるはずです。しかし、モノの見方や人生観(は言い過ぎかも)が大きく変わったんじゃないかなぁと感じます。
大学に来て1番初めに感じた、「来る大学間違えたな」感、今でも忘れません。その中で、先輩たちのバカみたいな映像を見てものすごく感動したこと、今でもよく覚えてます。自分よりも何でもできて、自分よりも努力している友人を見たときの衝撃、まだ癒えていません笑。後輩ができて、知らず知らず自分の目線が上からになってたことに気づかされます。子供たちのために考えても考えても、子供達は懐いてくれません。字も綺麗に書けない人達(好ましい表現ではないが見逃していただきたい)が、必死に世の中を回しています。
全部全部、新しい人に出会って、新しい世界を知って、新しい目線を得てきたものです。人に出会って初めて得られた経験です。

大学生の醍醐味=人との出会い

僕が、中高一貫校で過ごしてきたからということもあるのかもしれませんが、大学生になって1番楽しい想いをしているのは、世の中って広いなぁと感じられるからだと思います。こんなに世の中を見られる時期、もうないんじゃないでしょうか。大学生は身軽です。だから、色々なコミュニティーに顔を出すことができるし、色々な世界に飛び込むことができます。自分の地位をキャストオフして世の中を見ることができます。その中で、ふと自分の在り方に気づいて、身の振り方を考えられるのが、大学生なんじゃなかろうか。

考え無しに世界を学べ

大学生なんて何にも守るべきものはない(命くらい?)し、バイト次第だけどお金もある。世の中の大人の多くは、若者として快く迎え入れてくれるし、時には叱ってもくれる。こんな特別な時期に、自分の世界に閉じこもっても仕方がない! とはいえ、頭でわかっていてもなかなか飛び出せないものですよね。難しい。
とにかく、僕の場合には、エイ、ヤー!と思って考え無しに踏み出しちゃうことが多かった気がしますね。いや、まだまだ怖くて内に閉じこもってる感ありますけどね……。
大学生活、1番踏み出せてないのが、恋愛だったりするんですよね。大人になってから失恋とか痛々しすぎるのに、どうしたものか……。

まとめ

つまり、大学生って、実はどの時期よりも1番広い世界を俯瞰して見渡せることができる時期で、しかもそれを良しとされる時期なんじゃないのってことです。おわり。

オタクはいつから街を大手を振って歩けるようになったのか

この記事はそこらの大学生がなにも調べないまま書きなぐっただけなので、そこは了解の上読み進めていただけると助かります(言い訳)。

私オタクなんで、と名乗るオタク

この間、Twitterでこんな発言をしてしまった。「生き生きしてるオタクはキライだ」と。じゃあそういうお前はなんなんだという話ですが、僕も漫画・アニメの知識があってそちら側に傾倒しているという意味ではオタクにカテゴライズされるのかもしれません。
しかし、昨今の「オタク」、定義が曖昧すぎるんじゃないでしょうか。僕が思うに、オタクってマイナスイメージの言葉だし、言うなれば蔑称だと思うんですよね。普通の人⇔オタクという対比の上で使われる言葉だと思われます。そういう人達は、マジで全てを捨てて自分の趣味(特にサブカルチャー)に賭けてるからこそ特異な目を向けられオタクと呼ばれるようになったのではないかと思います。
というか、はてなキーワードにも蔑称ってちゃんと書いてありましたね。いま読みました。
元々ロリコン漫画誌から発せられた造語の為、本来は(性的表現も含む)コアな漫画・アニメマニア(特に男性)を指す蔑称。
以上、はてなキーワードより引用です。
それが、現在ではオタクを自称するような人達が大勢いて、秋葉原などでは我が物顔で大手を振って闊歩しているわけです。
僕は自分たちでオタクを自称して連む姿に、「あたしってブスじゃん?」「えーかわいいよーあたしの方がブスだもん」「ブス仲間じゃんイェーイ」みたいな気持ち悪さを感じます。
違う例を挙げるなら、「あたしってデブじゃん?」「えーデブじゃないよーあたしの方がデブだもん」「デブ仲間じゃんイェーイ」みたいな気持ち悪さです。伝われ。
つまり、私オタクなんでって自称するヤツらは、オタクのことを蔑んだ上で、自分を下にして普通の人同士で仲良くなるために自称しているひとが多いんじゃなかろうか。

生き生きしてるオタク

じゃあ、生き生きしてるオタクとはなんなのかというと、こんな感じに分けられるんじゃなかろうか。分ける軸としては、①普通の人⇔オタク、②周りを気にしている⇔気にしていない、でしょうか。
  1. オタクを自称する普通の人が仲間内でワイワイやってる
  2. 特異な目を向けられる快感を得るために普通の人がわざと演じている
  3. 自分が特異であることに気づかず(周囲からの視線に目もくれず)、活動に励んでいる
  4. 自分が特異な目で見られてることには気づいているが、それよりも目の前のコミュニティ・コンテンツが優先である
こんなもんでしょうか……?
ここまで類型立てたところで、秋葉原を大手を振って歩くオタクはどれなのか考えると、1,2が多いんじゃないかなと思います。オタクという言葉が広く流布して、サブカルチャーと呼ばれていたものがメインカルチャーに登りつめて、その結果が1,2のような生き生きしたオタクを生んでる気がします。
なんかアレですね、竹の子族に近いものを感じる。竹の子族よく知りませんけど。元竹の子族の方に聞きたいのですが、なんで自分は昔あんなことしてたんだろう?とか思わないんでしょうか(別に煽ってないです)。たぶん、世の中そんな流れだったからそうしてただけなんじゃないんですか。先の類型の1,2のようなオタクもたぶん同じで、なんかそんな流れだからそうしてるだけだと思うんですよね。

それが全国的に波及するに至ったのは、やはりインターネットの力なのではないでしょうか。そして、1,2のようなオタクを取り込んで儲けようと思った企業の力なのではないでしょうか。秋葉原がそういう街として成立したのも、商業的な思惑があったのではないかと思ってしまいますが、これは資料に基づかない勝手な思い込みかもしれません。

今後に思うところ

そんなわけで、話があっちいったりこっちいったりしてますが、結局何が言いたいのかというと、①オタクを自称するのは気持ち悪いからやめてほしい、②オタクを自称してるのは大抵そのときの流行でたまたまそんな感じになっちゃった普通の人なんじゃないの、ということです。それをクールジャパンっていって売り出そうとしたって何か嫌ですけどね。だって竹の子族売り出します?売り出さないでしょ。もちろん、アートなり芸術作品であることを意識したアニメ・マンガなどはクールジャパンとして宣伝していくことは可能でしょう(同様にファッションとしての竹の子族・原宿文化はクールジャパンとして世界に知られている)。なにがただの流行で、なにが文化なのか、曖昧なところですね。
オタクがコミュニケーションツールになっている、という指摘を見たことがある気がします。僕もコミュニケーションツールとしてアニメ・マンガを受け入れた気がします。コミュニケーションツールということは、それだけ多くの人が広く知ることとなった、つまりメインカルチャーとなったことと関係していると思います。マンガ・アニメは既にメインカルチャーだ。なのに、未だにサブカルチャーの席を譲ろうとしない。だから違和感があるんじゃないでしょうか。オタクという言葉はサブカルチャー時代の言葉であり、もはやメインカルチャーとなった今にはそぐわない。
ところで、マンガやアニメがメインカルチャーの仲間入りを果たしたとすると、じゃあ今のサブカルチャーってなんなんすかね。メインカルチャーまで来るとそこから先は衰退していって、また新しくサブカルチャーメインカルチャーの仲間入りをする、という流れを感じますが、マンガ・アニメが未だにサブカルチャーのままなお陰で次のサブカルチャーが出てきていないのかもしれません(さすがにそんな単純な話じゃない)。

バレンタインデーと男子校

最後にもらった本チョコ()は幼稚園年長さんのとき、どうもくりむです。

たまたまバレンタインデーのときに彼女がいないだけです(大嘘)。

男子校のバレンタインデーは普通*1じゃない

自分は男子校出身です。文体からもにじみ出てますね。さて、世間の皆さんは、男子校のバレンタインデー、どんな感じだか想像がつくでしょうか。

 男子校のバレンタインデー、もちろん「興味ねぇよ」って言ってます。が、そこで終わらないのが男子校根性だと思いませんか?(全国の男子校のみなさんごめんなさい)

男子校のバレンタインデー4類型

僕が在学当時、よく見られたのは、女の子から(たとえ義理でも)チョコをもらうやつは徹底的に叩きのめす「異端審問会」でした。教室の後ろの掲示板には、チョコのパッケージが画鋲で打ちつけられ(中身は美味しく頂いてます)、疑惑が上がると1日中問い詰められ続けます。そして誓うのです「俺たち仲間だよな」と。

バレンタインデーに限りませんが、男子校にはこういう「足を引っ張り合う感じ」がいろいろなところに見られます*2。勉強しねぇっていったら本当に勉強しないし。

またあるときは、大量にチョコのお菓子を買ってきて、みんなで食べるだけの会をするところもあります。まあ、普通ですね。

またあるところは、自分でクッキーなりチョコなりを作って、友達に配ったり女性の先生に渡したりします*3。だんだん面白くなってきたでしょうか。誰が男子中高生の作ったチョコなりクッキーなりをよろこんで食べるのかよくわかりませんが、そんな感じになるわけです。

究極的には、友達同士で手作りチョコを持ち寄って(きっちりラッピングされてる)交換しあいます。これが案外クオリティが高い。トリュフで満足しないですからね。僕はトリュフで許してって感じでしたが。一番ビビったのはマカロン作ってきたのですかね。

バレンタインデーこそ男子校の良さがわかる

そんなわけで、各所各年様々な楽しみ方をする男子校のバレンタインデーですが、こうやってバレンタインデーに盛り上がる友達、実は部活動のメンバーとは違ったような気がするんです。なんでかよくわからないけど、バレンタインデーに盛り上がる。そして、何より、卒業してからも会う友達って、バレンタインデーで一緒に盛り上がったやつらな気がします。気のせいですかね。ややこじつけですかね。

バレンタインデーに限らず、クリスマスも同じような雰囲気があります。「お前はクリスマス暇だよな?」っていって、暇じゃないやつは「異端審問会」にかける。暇な人で集まってワイワイ騒ぐ。こんなの、男子校じゃなきゃできないんじゃないの。共学の男どもにこの真似ができるのか?!(突然の煽り)

男子校は、良くも悪くも男しかいません。よく「男子校出身はオタクだしコミュ障だ」みたいな、男子校を蔑む論調になりがち(いやホントその通りだとは思う)ですが、だからこそ純粋な友情が生まれると思うのです*4男子校では、好きなものは好き・嫌いなものは嫌いって言うし、女の子を取り合って喧嘩しないし、そのために嘘を付き合ったりしない。そういう人たちが大学に出ていきなりライアーゲームの世界に放り出されてコミュニケーション取れるわけないだろうが!!

社会がライアーゲームというのは多少言い過ぎですが()、でも、男子校ってそれくらい人間関係で悩まないんですよね。

大人になってもあの頃に戻れる

大人になってもあの頃に戻れる理論、実はそんな単純な人間関係のおかげなんじゃないでしょうか。僕はまだ大学生なのでなんとも言えないですが、大人になったって僕らの間にあるのはただ「友達」か「友達じゃないか」の単純な関係しかなくて、友達なら何も考えず話したいこと話すし、友達じゃなかったら全く話さない。そこにちょっとなかのいい友達とか、こいつならここまで話せるみたいな意味不明なボーダーとかないのではないでしょうか。僕だけですか。でも、共学だったら「あーあの子にフラれたな」とか「あの子と付き合ってたな」とか「三角関係だったな」とかあるんでしょ?メンドクサ。

僕はそういう、こいつらとはなんでもできるってマインドでいるし、だからこそ「将来絶対お互いの分野で活躍して再会したい」と思ってます。そうじゃなきゃ面白くないじゃん。僕の友達だと何のしがらみもなく誇れるし、僕もそう言われるように頑張りたい。そういう関係ってどうですか、バカっぽいですかね。もっとバカなこというと、将来再会して、みんなで一緒に世界を救いたいと思ってます。幸せな脳みそしてますでしょ。

よくわからないところに話が着地しようとしていますが、一番言いたいのは「男子校のバレンタインデーは最高に面白い」ということです。 

バレンタイン・キッス

バレンタイン・キッス

 

*1:僕は普通のバレンタインデーがなんなのか知らないですが。

*2:全国の男子校関係者の方、本当にスミマセン……

*3:先生からは返って来ない

*4:自分で書いてて若干の吐き気を覚えた

働きたくない

学園祭が終わりました。すでに1日が経ったはずですが、未だに疲れからか後を引きずっています。燃え尽きとは違う何かです。

所属意識と突きつけられる現実

これはかなり前からその気があって、悩んだ時期もあったことですが。いわゆる「仲間が好きなのか、活動が好きなのか」問題です(僕の中では常に議論がなされている定番の問題なのだ)。 具体的な例をあげる。多くの人は、中高大と部活動やサークル活動をしています。当然僕もです。なんと4つのサークルに籍を置いています。 サークルや部を選ぶとき、その活動内容はさることながら、そこの雰囲気や所属する人の人柄も大きなファクターとなっているはず。僕もそうやって選んだはず。それが、学年が上がって、指揮する立場になって、いつも直面します。後輩に何かを伝えられるほど活動内容に精通してないし、突き進むだけの熱意もないと。そしてこう思うわけです。ああ、ただ一緒にいて気持ちいいから所属してただけだったのかと。 これを友人に話したとき、笑われました。そりゃ普通そうでしょ笑、てきな感じだったと思います。僕もそう思います。そりゃそうだ、それの何が悪い。 悪くないけど、みんなその活動に打ち込んで、それなりの成長や成果を残しているはず。もしそのコミュニティがなくなってしまったとき、同じ活動ができる別の似たコミュニティを必死で探すはず。集まっているとき以外にも研鑽を重ね、努力を怠っていないはず。それが僕にはないことに、所属意識が最高潮に達したときに突きつけられるのです。ただ周りに流されるままに、自分がそれを好きだと思い込んで(本当にそこそこ好きなんですけどね)続けてきていただけなんだ、と気づくわけです。選ぶことを放棄する快感、周りに流される快感、何かに(思い込みでも)熱中する快感、そういったものにズブズブになっている自分。なんと惨めなことか。

物事を選択するのは、理性か感性か

基本的に僕は“頭でっかち”なのです。何かをやろうと思ったときに、リスクばかり考えて何も出来なくなってしまう。あるいは、途方もない道程ばかり見て一歩踏み出せなくなってしまう。普段は感情に流されるままななに、ふと立ち止まったときに理屈ばっかりこねて、自分の感情を蔑ろにしてしまう。 楽しい方向に進んでいくことは、ともすれば自堕落な方向に進みがちです。所属して間もない頃は、全てが楽しい。新しいことばかりで、すべてが華やかです。それが暫く経つと、ある程度新しいこともやり尽くして、今度は思考停止の自堕落な方向に進みます。表面上は、コミュニティの活動に積極的に参加してるようで、そして実際に自分も充実感を得ているなかで、実は与えれた環境の中で、選択肢が狭められた中で、ただ思考停止しているだけになってしまう。 そして、そんなことは当たり前で、誰だってそうなはずなのに、コミュニティを指揮するときにこの事実に行き当たり、頭の中をぐるぐるこの事実が回るだけで、なにもできなくなってしまうのです。何も考えず感性に任せてきたはずが、急にこの場に及ぶと理性で判断しようとするのです。あーやだやだ。考えるのなんて辞めてしまいたい。

就活は、人生最初の“選択”になりうる

そんなわけで、大事な選択・責任のある選択は、理性で行おうとしがちですが、僕はそれに極端に弱い節がある。周りにあるものをとりあえず吸収して、良しとして、とりあえず乗っかってみて、所属意識を持ったりしてみて、そんなことを続けてきたわけです。理性での選択なんざしたことないよ! いやいや、あなた受験したでしょ、高校とか大学はどうやって選んだの、って? 選んでないですよそんなの。高校(正確には中高一貫だったので中学)は、とくに理由はないけどなんとなくここがいい、で選びました。あとは、手が届きそうな難関校ってところ。大学は、自分の高校の友達に流されて国立難関校を志望してみたり、偏差値の高そうなところを片っ端から受けてみたり、ジャンケンで受験校決めてみたり。そもそも文理決めたのも特に理由なかったのでは。 趣味や習い事だって、全部借り物です。友達がやってたから、親に勧められたから、運動したくなかったから、などなど。 そして、全てを借り物で築きあげた結果、唯一見つけたと思った“多趣味”(借り物の趣味なのでカッコが二重になるべきかもしれない)という才能は、大学に入って早々自分より多趣味で自分よりハイクオリティな人に出会って、崩れ去ったのでした。 そんな自分が、就活をしようという今、何を求められ、求めているかといえば、オリジナリティなわけです。社会の歯車になりたくない、と思ってはいても、じゃあ何になりたいのか、何が得意なのかと言われれば、閉口するしかない。興味のある職種は?と聞かれても、そもそも趣味や興味の対象が定まってない。就活という人生で(もしかしたら)最も重大な場面で自分の無力さに直面し、いつも怠けていた理性は何も処理できないでいる。その結果の思考停止が“働きたくない”に他ならない。

あなたの“働きたくない”はどこから?

私は思考停止から。 どこの職種に就いたって、それなりに上手くやっていけるとは思います。でも、絶対に1番にはなれない、そんな気になる。あらゆるものを、流されるままに適当にやったきた自分には、1番になれるスキルはない。今より、1番になれないということは、褒めてもらえないわけで、ゆとり教育ど真ん中世代の僕は辛すぎてやばい(そうやってすぐゆとり教育のせいにする)。こんなことなら、10代で子ども作って出来婚して焦って職場探して〜とかしたかった(大嘘)。 さて、日本の若者は未来に希望を持てていないそうですが、「あなたの“働きたくない”はどこから?」

 

p.s. 彼女がいない僕は、よく考えたら“好きな女の子”すら“選択”できないから彼女つくれないのかもな、と思いました。

 

※このブログ記事は、僕のもう一つのブログ(kuriiiimu.net)からの転載です。