ギンザノヒト

ダサくていいじゃない

丁寧な暮らしするか、って話

最近、プチプラファッションを語る動画だったり、車のレビュー動画だったりをよく見てます。リアルな私を知ってる皆さんは意外でしょう。私も意外です。

思い返すと、休職する前、ヒゲを剃らなくなったり、髪を切らなくなったり、靴紐を結ぶのがダルくなったり、見た目が疎かになることが多かったなぁと。何の関連があるのかは知らないですが。回復してきたんだと思うことにします。物欲を満たすためにはお金が必要なので、働かなきゃという気にもなりますし。

そういう一環で、靴紐のある靴を久しぶりに履きました。靴紐結ぶの面倒くさくて苦手だったんですが、靴紐結ぶの面倒なくらい生き急ぐ必要もない気がしてきて、「靴紐くらいゆっくり座って結べばいいじゃん」って思うようになりました。無印のめちゃ安いスニーカーですけど、座ってゆっくり結ぶようにしてます。それくらいのゆとりで散歩してもいいじゃん。

モノを大切にすることは、モノを取り巻く時間の流れを大切にすることで、結局自分を大切にすることなのかもな、と思いつつあります。タイパが流行語になり、何かとハックしたがる今日この頃ですが、座って靴紐結ぶくらいが丁度いいんじゃないですか?

今更毎食あすけん入力してるって話

タイトルの通りなんですが、退院してから、毎食レコーディングしてます。あすけんってアプリです。2019年以来、久しぶりに始めました。今回はちゃんと続いてます。97.4kgスタート(たぶん夏頃は110kgあったはずなんだけど糖尿病の症状?でガクッと減って危なかった)、現在は94.8kg。毎朝朝食前に中華製のやっすい体組成計で体重測ってます。昔買ったGarminの腕時計もここに来て仕事を果たしつつあります。意外といろいろ必要なものは持ってたんだなぁ。

入院時、栄養士の人から食事指導も受けました。糖尿病だからって糖質制限すればいいってことでもないらしい。というか、急激な糖質制限で逆に危険な状態に陥って入院したまであります。ちゃんとバランスよく食べないとダメだよ? 今は1日1800kcalになるように調整中。朝は600kcalなんてなかなか食べれないし、夜はなかなか収まらないし、難しいですね。ゆくゆくは72kgくらい(身長174cmのBMI 25)を目指しつつ、まずは80kg台へ進みたい。

意識して食べつつも、まあ簡素すぎる訳でもなくそれなりに食べれるので、家で過ごす分には問題ないんですが、外食しようとすると全然食べれるものがなくてストレスがマッハ。惨めな気持ちになる。

運動は、今は週3くらいで10,000歩の散歩。意外と1万歩ってこんなもんかーというのが分かってきました(2駅往復くらい)。散歩面白くならないかなぁ、いまいちモチベーションが上がらない。

まだ働いてないのに、ただ生活するだけで結構義務感で動くことが多くて、正直ややしんどいです。健康的な生活の人ってこれ義務感感じずにやってるんですか? 早くそれになりたい。普段は全然平気だけど、ふとした瞬間にわあああああって叫びたくなる。サステナブルな健康を身につけたいんだけど……。

サステナブルな健康に当たって、今の心療内科から、カウンセリングにシフトしていきたい気がしています。誰かに話すってやっぱり大事なんだと思う。家族に寄生しまくってるので、どうしても上手く愚痴が言えない。定期的な健康診断に加えて、定期的なカウンセリングも義務化した方がいいよたぶん。私が政治家になるときは公約にします。

独り身ですらこんなに面倒なのに、養う家族がいるなんて本当にすごいこと。世の中のお父さんお母さん、お疲れ様。オチはありません。

社会人6年目をお休みしたヒト

あーだこーだあって、約1年、休職しています。

いわゆる、適応障害というやつです。SEという業界柄なのか、はたまた30手前という年齢柄なのか、あるいはゆとり世代という年代柄なのか、それとも偶然なのか、私の周りでは(私の職場に限らず)ちょいちょい休職する人がいます。自分もその1人になったというわけですね。

私が少し特殊だとすると、休んでいる間に喉の渇きと吐き気が気になって病院に行ったら糖尿病と診断されたことですかね。幸い、とくに合併症もなく、飲み薬と生活習慣の見直しで改善していきそうなので、若いうちに分かってよかった、という感じです。

1週間入院して、いろいろ検査を受けつつ、糖尿病について看護師さんに教えてもらいました。今まで外食三昧、ジュース三昧だったわけですが、透析・失明はゴメンだなぁと実感しました(周りの患者さんは透析が必要な感じで大変そうだった)。

そんな中で、糖尿病の間接的な原因として、やはりストレスは見逃せないだろうなぁと思うわけです。どうしても無性にピザ・寿司・ラーメン・ハンバーガーを爆食いしたくなったり、炭酸飲料を爆飲みしたくなったりしてました。コロナ禍で、通勤することもなくなり、楽しみは食べ物とゲームだけみたいな生活を2年間すれば、まあそうなるよなーという気もしますが。

ストレスの発散と自己肯定感の向上が急務なわけですが、何かいい方法ないですかね。やはり筋トレが全てを解決するのか……?

Can software make human happy?

ソフトウェアは人間を幸せにできるか

 

ソフトウェアを作る自分としては、自分が作るソフトウェアは、人間を幸せにできるものであってほしい

幸せのゼロサムゲームを打開できるものが、自分が作るものであってほしい

ソフトウェアは、人間の夢と情熱と愛情の形であってほしい

 

結局、人間を幸せにできるのは、人間であってほしい

 

そんな気持ちでソフトウェアと向き合うとき、僕には何ができるんでしょうか……

自分が消耗することなく、夢と情熱と愛情を注ぎ続けることができるんでしょうか……

 

0と1の羅列から、人間を信じ疑う二律背反から、ゼロサムゲームをぶち壊すことができたら、シアワセですね

 

そんな、ソフトがソフトであり続けたい、今日この頃

 

追伸:社会人3年目の終わり、いまだに給料の出どころが分かりません

何者にもなれない君に捧ぐ

はじめに

仰々しいタイトルですみません。

皆さま、お久しぶりです。くりむです。今は無事社会人3年目になりまして、銀座で職業エンジニアを続けております。

相変わらず彼女はいません。

 

熱心なくりむファンの皆さまはご存知かと思いますが、実はフライングリャマという同人サークルでヌルッと活動してます。というと、なんか作れるんだ、とか思われるかもしれないのですが、実のところ何も作れません。これまた熱心なくりむファンの方ならご存知かもしれませんが、僕は、ちょっとプログラミングができて、ちょっと映像の編集ができて、ちょっと絵が描けて、ちょっとラジオの構成が練れて、ちょっと楽器ができて、ちょっと文章書くのが好きだけど、どれもそんな上手くないてきなやつです。というわけで、フライングリャマでは、作曲作詞映像制作以外の、なんか隙間てきなものをやってます。

 

第1次産業をしてみたい

そんな僕は、目の前で新しいものが生まれていく中で、やはり自分でゼロから作品を作り出すというものをやってみたい、と思うときがあります。僕ができるのは、誰かが作ったものをちょっと引き伸ばしてみたり叩いてみたり、そういう加工業(第2次産業)です。実際、向いてると思うし、楽しいです。でも、そうしていると、やはりゼロから作れる人に憧れてしまいます。きっと、自分の中の世界を、自分の中だけで終わらせないで、世界へと広げていき、いずれは世界を変えるところまでいけるんじゃないか。平凡な僕にとっては、そういう姿が眩しいし、やってみたいと思うわけです。第1次産業をしてみたい。

 

職業エンジニアということ

話は変わりますが、先述の通り、エンジニアとして働き出して2年半が経ちました。悪態はつきつつも何だかんだ楽しくやってます。

エンジニアとして2年半ご飯を食べさせてもらって、今後のキャリアとか人生について考えるようにもなりました。やっぱり圧倒的に技術に貪欲で寝食惜しんで探究し続けられる人って本当にいて、僕はお世辞にもそうとは言えないなぁという感じです。それはそれで、僕個人としてはユーティリティープレイヤーであることを売りに生き残っていくしかないわけですが、目まぐるしく技術が進歩すること、新たなサービスが登場すること、技術に貪欲なもっと若い人が増えていくこと、自分の技術力に責任を持つこと、いろいろなことによるプレッシャーに押し潰されそうになります。

エンジニアは手に職がついていいよね、とか、何か作れるって凄いよね、とか、もしかしたらよく聞くかもしれませんが(最近はそんなでもないか)、ぶっちゃけ幻想で、実際にはいつ自分の技術スタックが古くなり不要になり飯が食えなくなるのか、どうやったら設計書もないところから0→1で作れるようになるのか、もがいてます。全てのエンジニアが自分で何でも作れるなんてことはなくて、言われたものを作るのもめちゃくちゃ難しく、それすら叶わず悪戦苦闘します。それでもなんとなく飄々としてみせるのは、努力とか気持ちとかよりも、目の前の結果とその原因をロジカルに紐づけることに重きを置いていて、感情でシステムが出来上がるなんて思ってないからです(もちろん、ギスギスしてるよりは楽しい方がいいけど)。

つまるところ、エンジニアとしても結局第1次産業なんてできなくて、僕は与えられた材料を加工して提供する第2次産業なわけです。てかそれすら十分に発揮できない。

 

自己肯定感とか努力とか

やりたいことはいっぱいあるし、変えたいこともいっばいあるんだけど、どうやったら継続できるんだろうか。もう25歳になって、それでも何者にもなれず、今後何者かになれる気もしない状況を、どうやって打破すればいいのだろうか。そもそも、何を打破すればいいのやら。

自分の追うものは正しいんだろうか。自分の今の認識は正しいんだろうか。誰かに答えを求めて、何かに答えを求めて、それは正しいのだろうか。責任を取ってくれるのだろうか。

自己肯定感が欲しい。そう思うことが多いです。自己肯定感があれば、もっと前向きに行動できて、視野が広がって、努力も継続できて。でもそれは幻想なんじゃ……。

何者にもなれない僕は、何者かになりたいビジョンも、何者かになる術も、それを誰かに肯定されることも、自分で肯定してあげることも、全てを何処かに置き去りにしてしまったような、そんな感覚に陥ります。

コーディングをするとき、書いていながらイマイチな気がしつつ、何を直せば解決するのか分からず消して書いてを繰り返す。

絵を描くとき、こんなものが描きたいな、と思うものと、自分が描いているもののギャップに疲弊して、熱が冷めてしまう。

曲を作るとき、頭では壮大なメロディが浮かんでいるのに、いざ1音目を入れると全てが消し飛んでしまう。

継続するとか、やりきるとか、そういうのってどこで身につけるはずだったんでしょうか。何をモチベーションに継続できるんでしょうか。成功体験? それくらいなら、色々なところで沢山積んできたはずなのに……。自己肯定感? オヤジにもぶたれたことないのに……。

 

何者にもなれない君に捧ぐ

現状を維持することより、とにかく変化することを選ぼう。考えることより、行動することを選ぼう。反応反射音速光速。もっと早く。手を早くして、試行回数を増やして、沢山失敗して、沢山立ち直ろう。人生の密度を高くしよう。そんなの続けられない? 大丈夫、切羽詰まった君ならできる。周りを変えるより自分を変えよう。君の幸せは、間違いなく君のものだ。主人公になろう。

そして、寂しくなったら、イライラしたら、道に迷ったら……。そのとき考えるか(適当)。

天気の子2回目見てやっと分かったこととか

天気の子見た

1回目見たときは、あまりの完成度の高さにびっくらこいて、今までの新海誠作品と違うということしか分からず困惑しました。ですが、2回目見て自分の中で何となく落ち着いたので、書き留めておきます。

ネタバレを含むので、まだ見てなくてネタバレ嫌いな人は読まないでください。といっても、細かい考察はあんまり興味がないし自信もないので、そういうのは専門家?に任せます。具体的な「この◯◯は××を暗喩してる」みたいなのは(あんまり)やらないです。ググった方が面白い。須佐之男命が出てきたのは笑ったけど面白いなーと思いました。

熱心な僕のファンならご存知と思いますが、僕はただの一介のサラリーマンに過ぎず、大学の学位も学士(人間科学)なので、ここに書いてるのはただの戯言です。批判は受け付けない。

これまでの作品について

ぶっちゃけ全部の作品見てるわけではないし、小説やインタビュー記事を読んだこともないし、ましてや新海監督本人でもないのですが、過去数作品見てきて自分が考えてきた「新海監督の作品パターン」みたいなものがありました。それは、「時間軸のズレによる物悲しさの表現が好き」ということです。そんなん知ってるわとかやめて。ここでいう時間軸のズレとは、たとえば大ヒットした「君の名は」でいうところの入れ替わった三葉の村?は「3年前」に消滅していたという露骨な時間設定もありつつ、「言の葉の庭」でいえば「みんなが授業をしているはずの時間にサボって先生に会う」(ちょっと内容あんまり覚えてなくて違ったらすみません)てきなものもありつつ、「秒速5センチメートル」でいえば「ヒロインを待たせているのに大雪で一向に電車が動かず時間だけが過ぎていく主人公の焦り」みたいな心情的なズレもありつつ。だいたいのストーリーで話の軸としてこの時間軸のズレが使われてきていたと思ってます。劇場作品1本目の「ほしのこえ」からそんな感じなので、まあ好きなんでしょうね。個人的にはほしのこえが一番グッとくる感があります。みんな見てくれよな。

というわけで、なんか時間のギャップみたいなの好きっぽいし?それが好きなんでしょ?くらいの感覚で見てたので、「君の名は」を見たときもはいはいはいキターいつものパターン!くらいの感じで、個人的にはまんま新海監督だったので、ゴーストライターとか言ってる人がいたのはちょっと面白かった。

天気の子

ビビった

そんな気持ちで「天気の子」を見たので、時間があんまり絡んでこなくてめちゃビビりました。ゴーストライターかよ、とまで思った。陽菜と帆高の年齢差のギャップくらいしか見つけられず、新海監督はこの設定だけに性癖を詰め込んだのだろうと……。でも2回目見て無事勝手に納得することができました。「天気の子」もやはりズレを表現した作品であることは変わらず、それが好きなんだろうと。「時間のズレから世界観のズレへと表現を変え、さらに此方と彼方という見えやすいズレでラップしてしまったのが天気の子である」と。

時間のズレから世界観のズレへ

このズレは、冷静に見ればめっちゃ劇中で言ってました。まず冒頭から帆高が「誰も知らないけど僕らは世界の仕組みを変えてしまった」てきなことを言っていて、それを素直に解釈すれば「他の人と帆高達で世界観がズレている」と言っているわけです。また、警察に捕まったときも帆高は「誰も気づかないけど陽菜さんが犠牲になったから晴れたんだ」てきなことを言って泣き喚きます。これも他の人の世界観vs帆高達の世界観を直球で言ってるわけですね。これあえてブログ書くほどでもない気がしてきた。というわけで、新海監督は、これまでこだわってきた(のか結果そうなってただけなのかは分からんけど)時間軸のズレを拡張し、世界観のズレへと心を動かす中心をずらしてきたわけです。この流れ、今思えば「言の葉の庭」「君の名は」あたりから出始めてるので、そこで気づくべきだったかもしれない。このズレが、今まで新海監督の作品で流れていた新海節とも言えるエッセンスな気がする。

此方と彼方の対比でラップする

先述の世界観のズレとは別に、この作品ではもう一つ対比が描かれています。それは、この世とあの世、此岸と彼岸、地上と空の上の対比です。これは僕が先入観で見てたせいかもしれないですが、世界観のズレの描写よりも此方と彼方の対比の描写の方が多かった気がします。お彼岸の話や巫女の話や須賀の奥さんの話や……。この対比をあたかも主軸かのように進めていくことで、新海節とも言える部分を覆い隠し、口当たりなめらかな感じに(僕からすると本当に新海作品なのか分からない感じに)させてきたのかなと思います。

2つのズレ・対比が織りなす複雑な関係

そんなわけで、世界観のズレ・此方と彼方の対比により、各登場人物がそれぞれバラバラな方向を向くことになり、物語に奥行きが出ています。

・此方&人柱認知勢

帆高、凪、須賀(、夏美:正直微妙、ただ帆高の味方だっただけという可能性が捨てきれない)

・彼方&人柱認知勢

陽菜(そりゃそうだ)

・此方&人柱非認知勢

平泉刑事、梶刑事(キャラ名覚えられないから役者で……)

さらに、それぞれの陣営でもスタンスが違うわけですね。どうでもいいけど「須賀さん、大丈夫ですか。貴方泣いてますよ」、めっちゃ好き。

往て帰りしてきな話

「天気の子」、まああっちの世界に行って帰ってくる系話で、所謂往て帰りし物語てきな感じなんだと思いますが、そういう観点で見るとまた別の切り口になるのかなぁという所感です。というのも、この話の中では三重(?)の往て帰りしが行われていて、「田舎(帆高の世界)→東京(須賀の世界)」「東京(須賀の世界)→東京(陽菜の世界)」「東京(陽菜の世界)→天界」となっています。というなかで、割と面白そうなキーになりそうなシーンを上げるなら、たぶんこんな感じ。

  1. フェリーで須賀に助けられる(帆高→須賀)
  2. 須賀にご飯を奢る帆高、須賀に「食うか?」と聞かれて断る(須賀の世界を拒否)
  3. 陽菜にビッグマックを差し出され食べる(須賀→陽菜、陽菜の世界を受け入れる)
  4. K&Aプランニングへ(ただし、陽菜の世界の庇護下)
  5. 異常気象(天界→陽菜への圧力)
  6. 陽菜を助けに天界へ(陽菜→天界)
  7. 帰還(天界→陽菜)
  8. 水没した東京(陽菜の世界エンド)

あとは、陽菜てきには「陽菜の世界→天界」の往て帰りしをしてるわけですが、ここはたぶん他の人も指摘してるであろう陽菜のチョーカーがキーアイテムのはず。既に天界の人である母の形見をお守りとして天界に行き、帰ったことでお守りが壊れる。

こう解釈すると、あそこでビッグマック食べてなければたぶん東京水没してなかったんじゃないかな(雑)。

まとめ

というわけで、いつも分かりやすかった新海監督のエモポイントを色々な別の何某かで隠してきていて、物語の奥行きが深まってるのかなーという感じです。とはいえ、エモポイントはまだ感じられるので、そこは良かった(安堵)。もっと細かい解釈は僕の技量・知識的に難しいのと、考え過ぎて他のことが手につかなくなってきているので、辞めておきます。私の知人である皆様におかれましては、飲みに誘っていただき、談義に花咲かせましょう。

これが流れるシーンの昂まりがヤバすぎる。

グレイテスト・ショーマンを見てきた

はじめに

見てきました。IMAXで。最高でした。

日曜日に、昼食を食べるためだけに外出してしまい、そのまま帰るのもなーと思ってドトールに寄って、ちょうどいい時間に上映する回があったのでそのまま映画館へ。カップルに両脇を挟まれる中、ワインを飲みながら一人泣きそうになりました。終わった後はCDショップに直行してサントラ購入。

酒飲みながら観たせいもあるかもだけど、めちゃめちゃいい映画だと思うので、感想まとめようと思います。

ネタバレのない感想

この作品は、主人公のサクセスストーリーでもなければ、ラブストーリーでもない。完全に「俺たちは生きてるぞ! お前は死んだ顔して何がやりたいんだ?」を観る人に投げつけてくる、パワー満載の映画です。劇中の登場人物の希望、絶望、夢、情熱、諦め、興奮が楽曲によって美しく力強く伝わってくる。観る人を惹き込み、その感情たちに巻き込んでくる。そして、観終わったあと、強い感動ではなく、余韻に浸るような、「明日から強く生きよう」というパワーを静かに感じられる、そんな映画。商業主義により擦り減り、社会に抑圧され、夢よりも現実を生きる人に、「それで楽しいか?」と投げかけ、希望を与えてくれる、そんな映画。僕は、この映画見て、仕事辞めたくなりました。

観終わった直後よりも、余韻の方が凄いので、サントラ買いたくなると思います。あと、絶対音響がいい映画館で観た方がいいっす(全員言ってる)。

ネタバレありの感想

※ネタバレあります

劇中歌参照しながら振り返っていきます。

 

The Greatest Show

The Greatest Show

イッチバン最初、いきなりこの曲から始まる。その力強さに圧倒され、すでに僕はちょっと泣きそうでした(全くストーリー知らなかったけど)。すげえショーが始まる!を予感させる。んでもって突然の夢オチ。この時点では、この男の子がフィニアスだって分からないっすよね。すぐ分かるわけだけど。

このあと、盗みを働きながら生きながらえる姿が描かれるわけですが、その生活が長かったから平気で南シナ海に沈んだ船を担保に大金を借りたりするのかな、という、仕方ないとはいえ主人公らしからぬ行いが垣間見えます(僕が1番驚いたのは、それを受け入れるチャリティ)。

A Million Dreams

A Million Dreams

え、キミ歌上手すぎだろ!ってまずビビった。歌声が綺麗すぎる。このとき、少年フィニアスは、チャリティにグレイテスト・ショーを見せてるんですよね、最高。

‘Cause every night I lie in bed
The brightest colors fill my head
A milion dreams are keeping me awake

少年フィニアスのここ、最高すぎる……。歌声の透明感と、希望に満ち溢れた歌詞。昔の、色々夢想しては寝付けなかった夜を、観る人に思い出させる。ただただ美しい。

このあたりで、あーこれP.T.バーナムなのか、みたいなのが何となく分かり、突然の大人バージョン登場で全てがわかる。このときのフィニアスは、チャリティだけのグレイテスト・ショーマンなんですよね。チャリティは、格式ばって抑圧される家庭環境の中で、ショーを見せてくれるフィニアスに惹かれるわけです。

A Million Dreams (Reprise)

A Million Dreams (Reprise)

ここも感動的。2人の娘たちには、夜眠れなくなるほどの夢や希望がある。それはまるで少年フィニアスと同じなわけです。こんな夢に溢れた娘たちに、自分のせいで現実を突きつけてしまう。そんなことを考えたフィニアスは、ここで「成功」を誓ったはずです。このときはまだ、娘たちに夢を見させることを考えてたはず。その手段としての富と名声だったはずが、途中ですれ違ってしまう。

僕がこの映画で1番好きなセリフは、この後娘たちに言われる「生きているものが見たい、だって皆死んでるもん」てきなセリフです(1回しか見てないからちゃんと覚えてない)。ここがこの映画の本質だと思う。血が通った迫力が欲しい。これめっちゃ共感できるし、考えさせられませんか。何でもインスタントに揃い、娯楽に溢れかえった現代において、生きているものって、なんなんだ。死んだ顔してインスタントに楽しむのって、本当に楽しいんだっけ。

ここで、フィニアスは“面白人間ショー“を考えつくわけです。このあたり、僕の中で結論が出てないんですが、観たときの感想てきには「ぜってー金のことしか考えてねーな」って感じでした。あらゆる“面白人間“をスカウトするにあたり、誘い文句は「君は君として受け入れられるはずだ、勇気を出せ、任せろ」でした。胡散臭さがある。にもかかわらず、このあとのCome Aliveは強いメッセージ性がある。ここが謎。上っ面だけでこんなメッセージ放てるなら、相当の詐欺師だと思う(劇中でも自分で詐欺師って言ってるけど)。

Come Alive

Come Alive

生き返れ。こんな強いメッセージないっすよね。社会に潰されて、自分を肯定できなくて、縮こまって。それでいいのか。このメッセージに動かされ、レティ達は舞台に立ち、今までとは違う世界に飛び込んで、2度と戻れなくなってしまう。夢と希望を持つようになる。その姿に、観ている人も夢と希望を持ち、笑顔で帰る。このへん、凄く薄っぺらくしてしまうと、差別的笑いに見えるところだと思いますが、間違いなく劇中の観客も熱狂し、生き生きしている。その見せ方が、曲のメッセージ性の厚みも相まって上手かったんじゃないかと個人的には思います。この曲聞くとマジで仕事辞めたくなる。

忘れちゃいけないのは、このときフィニアスは金を稼ぐためにいろいろ盛りに盛ってるところです。詐欺師の片鱗を見せてる。

The Other Side

The Other Side

Other Side。富と名声・社会的地位 vs 魂の充足。フィリップを引き込んでおきながら、完全に立場が入れ替わる。ここでフィニアスは完全に社会的地位を取りに行くのが、残念っぷりがすごい。まあでもこの頃、エリザベス女王に呼ばれても全員で乗り込んでたんですよね。

Never Enough

Never Enough

  • Loren Allred
  • サウンドトラック
  • ¥250

初見では理解が追いつかなかったんですけど、なんでジェニーはフィニアスの誘いに乗ったんですかね。「自分は偽物しか見せられないけど、1度くらい本物を見せたい」てきな誘い文句だったと思うんですけど。わからん。どれだけ賞賛されても満たされないジェニーが、へんなことやって旋風を巻き起こしたフィニアスに惹かれたんすかね(雑)。

All the shine of a thousand spotlights
All the stars we steal from the nightsky
Will never be enough
Never be enough
Towers of gold are still too little
These hands could hold the world but it'll
Never be enough
Never be enough

For me

映画館で聞いたときは震えました。あまりにも悲しすぎる。孤独が溢れてました。富と名声という、フィニアスが求めるものを持ちながらも、圧倒的な孤独。行きつく果てが見える。ジェニーは、この孤独を理解して2人だけの世界を作ってくれることをフィニアスに期待したわけですが、フィニアスは金のなる木としてしかジェニーを見れなかった。それに気づいたジェニーは、更なる孤独に襲われ、姿を消す。可哀想すぎる。

This Is Me

This Is Me

  • Keala Settle & The Greatest Showman Ensemble
  • サウンドトラック
  • ¥250

主題歌らしい。正直、映画館で見たときは、まあ普通、って感じでした。ここが刺さるかどうかって、観てる人がフィニアス側にいるか、レティ側にいるかで変わると思う。ジェニーという社会的地位生成ツールを手に入れたフィニアスに、少なからずイラついていたので、凄く入りやすい文脈だったけど、あからさま過ぎた気もする。個人的には、Never Enoughの儚さに感動した直後だったので、まあそうなるよね、くらいの印象でした。

フィニアスはこのタイミングで、チャリティを始め巻き込んで来た人たちのグレイテスト・ショーマンから、ただの興行師になるわけだ。Other Sideに行ってしまう。

Rewrite the Stars

Rewrite the Stars

ここ、完全に結ばれたと思ったんですけど! まさかフラれるとは。歌詞見ると、対比的で面白いなーと後から思いました。

Tightrope

Tightrope

  • ミシェル・ウィリアムス
  • サウンドトラック
  • ¥250

フィニアスの影と踊ってた瞬間に消えるシーン、ヤバすぎる。フィニアスの夢ならたとえ間違ってたとしても一緒に見たい、夢を見せて欲しい、ついていきたい。そう思っていたチャリティが、フィニアスを見失う。というか、フィニアスがチャリティを見失う。Million Dreamsリプライズのシーンで、チャリティは「この幸せがずっと続きますように」って願ってたのに、ついに崩れる。綱渡りから落っこちる。

From Now On

From Now On

正直ピンとこなかった。フィニアス、これだけ散々引っ掻き回しといて、なんで戻ってこれるんだよ、ってなった。それだけ、レティ達にとって希望だったのかなー。大切なものは失って初めて気づく的な。ちょっと良かったシーンは、散々批判して来た批評家が酒を分けて「復活を祈るよ」って言ってたところ。一度全てを失ったフィニアスなら、盛りに盛った詐欺のサーカスではなく、本物のサーカスができると期待してたのかな。

I drank champagne with kings and queens
The politicians praised my name
But those are someone else's dreams

ここは好き。誰かの夢を生かされてた。そういうこと、ありますよね。

The Greatest Show

The Greatest Show

あえてもう一度。まさにグレイテスト・ショー。生きて、生きている本物を見せて、見るものを生き返らせ、自分が生きる糧にする。

フィリップがステージに立ったのも、よかったなーって感じ。「僕は何もしないよ」「みんな何かするのよ」から、傍観者をやめて生を歌う。

思うところ

サクセスストーリーでもなく、ラブストーリーでもなく、「俺たちは生きてるぞ! お前は死んだ顔して何がやりたいんだ?」を突きつけてくる。見た人は、フィニアスにも、フィリップにも、レティにもなれる。

フィリップの話が出てきてややこしい、みたいな話もあるけど、観てる人がどの位置にあたるかといえば、たぶんフィリップなんだと思うのです。始めは離れたところから面白がって見てるだけ、自由に憧れつつも今の生活を失えない。でも、そこから飛び出せば、それじゃ満足できないところに行けるんじゃないの?って、そう言われてる気がする。変わるのは、自分次第だよ。

そんな生き方、できないっす……。したいっすけどね……(中途半端だとアンにフラれる)。

社会に負けそうになって、自分を見失いそうになったときに、見たい映画になりそう。